佐々木 香輔

SASAKI Kyosuke

佐々木 香輔

写真家
1985 宮城県仙台市に生まれる
2007 日本大学芸術学部写真学科 卒業
写真表現の可能性を模索しながら作品制作に取り組む

  • 今までの作品について

    写真にしかできない表現を模索しながら、作品制作をしてきました。

  • 今回のリサーチテーマ

    当初は石清水八幡宮の神仏分離の影響や、近代における八幡三神の需要を調査する予定でした。しかし、テーマが抽象的過ぎて調査範囲自体が広大となり、自分が思い描いた以上の作品にはならないと2日目に思い至りました。そこで、調査3日目からはあえて範囲を狭め、八幡市橋本を重点的に調査することにしました。
    橋本に惹かれた理由は、その地域に住む人たちとの偶然の出会いでした。休憩のために橋本駅前の食堂「やをりき」に立ち寄った際、憩っていた住民たちが橋本の歴史や、抱える諸問題を親切に教えてくれました。現在橋本には再開発の波が押し寄せ、駅の拡張やロータリーの改修工事、そして高層マンションが建設されている真っ只中です。「5年で風景が変わるだろう」という住民の言葉には、強い実感が伴っていました。橋本は京街道の宿場町として栄えた歴史ある町です。そうした歴史ある町が、再開発をどう受け止め変容するかに興味を持ち、調査することにしました。


    橋本記念碑

    橋本駅のすぐそばに、「橋本記念碑」という石碑があります。幕末の慶応4年(1868)1月、鳥羽・伏見の戦いの主戦場となった橋本は大半が焼失しました。そして明治の新政府の行政区画整備に際し、橋本という地名自体も失ってしまいます。以降、地元住民たちは橋本の地名を大字として復活させるよう京都府に申請しますが、その願いがすぐに認められることはありませんでした。許可がおり、地名である「橋本」を取り戻したのは昭和3年(1928)。失ってから実に60年の歳月を経てのことでした。念願の地名復活を記念し建てられたのが「橋本記念碑」です。この記念碑は再開発後も駅前に移設され、恒久的に保存がなされる予定です。
     橋本という地名は、山崎橋の袂【はしのたもと】がそもそもの由来です。山崎橋は奈良時代の僧、行基によって神亀2年(725)に架けられました。その後も洪水で流されては修繕を繰り返しますが、天正20年(1592)の豊臣秀吉の再架橋を最後に廃されたと云われています。橋がなくなってからも、対岸の大山崎とを結ぶ渡し舟が昭和37年(1962)まで運航されていました。  その名の由来の通り、橋本はすぐそばを流れる淀川と密接に結びつきながら歴史を刻んできました。しかし、現在の河川敷は雑草と木々が深く生い茂り、川の姿を見ることすら容易ではありません。


    雑草が生茂る河川敷

    川から断絶されたたその風景に、自らの手で道を作る。【はしのたもと】を目指す。地元住民たちが60年の歳月をかけて取り戻した「橋本」という地名の、その原初にたどり着くための道づくりをリサーチの一環として行うことにしました。


    道を作った写真

    印象的だったのは、川縁の最後の木を切った途端に、できた隙間から川の風がそよいできたことです。風の通り道ができたかのようでした。


    川を望む

    着いたほとりは砂浜のようになっており、一昔前まではこどもたちの川遊びや、散歩の場所として親しまれていたとのことでした。


    砂浜のような河川

  • コミュニケーションについて

    橋本の人たちは私をとても優しく迎え入れてくださり、調査も充実したものとなりました。また、講師や参加メンバーとの何気ない会話が、自分の視点の切替や制作に非常に有益でした。物事をシンプルに考えることの大切さを学びました。
    河川敷の草刈りに際しても、管理する国土交通省に事前連絡をしましたが、想定したよりも容易に許可を得ることができました。人との間に壁を作り、対話が難しいと決めつけているのは常に自分自身であって、心持ち次第で人との距離はずいぶんと近くなると感じました。

  • ハプニング

    橋本を調査するうちに、江戸時代より遊郭として栄えたその歴史の受け取り方が、地元住民と外部の人間とでは大きく異なることを身を持って知りました。石清水八幡宮の参詣者が精進落としをする場としての歴史や、妓楼建築の意匠は外部者である私にはとても興味深く、時間をかけて調査・撮影も行いました。しかし、調査を進めていくうちに「遊郭」という言葉だけでは括ることができない人々の細やかな感情の動き、想いがあることに気付きました。そうした気持ちを尊重することが何よりも大事と考え、直接的なアプローチの調査は一旦中止することにしました。
    なかでも、旧歌舞練場跡地に残る養神の石碑は象徴的な存在でした。遊郭の歴史と深く関わるこの石碑を保存するか、あるいは撤去するかで、住民の間でも意見は分かれていました。奇しくもこの石碑は、保存が決まる橋本記念碑と背中合わせのように置かれていました。石碑というモニュメントという存在の、その功罪をあらためて考えさせられる機会でした。


    養神の石碑

  • 今後の展開

    活動報告展では、河川敷の草を刈り、道をつくる行為を記録した写真と映像を展示しました。草を刈り、道をつくるという行為自体はとても単純なことですが、展示では地元住民から思いがけない話をたくさん聞くことができました。
    上流に出来た天ヶ瀬ダムの治水によって頻繁に氾濫しなくなった代わりに、雑草や木々が深く生い茂るようになったこと。そうした雑草や木々に対して現状十分な管理がなされていないため、氾濫時に流木となり被害を大きくしてしまわないか懸念を抱いていること。茂みに隠れ、無断で耕作地として利用している問題があること。
    ただ雑草が生い茂っただけの風景にも、様々な事象が複雑に絡み合っていることを知ることができました。
    橋本や石清水八幡宮は、古来より対岸の大山崎や離宮八幡宮と密接に関わりながら歴史を刻んできました。今回の2週間の調査は、そうした対岸とのつながりを呼び起こすための道づくりとして結実しました。来年の大京都では、橋本と山崎に伝わる歴史や物語をモチーフとして用いながら、想像の橋を架けたいです。

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