池上 綾乃

IKEGAMI Ayano

池上 綾乃

埼玉県在住。東京藝術大学芸術環境創造分野修了。
2018年度、同大学国際芸術創造研究科教育研究助手。在学時にトビタテ留学JAPANの支援を受けて英国ウェールズに滞在。劇場を持たない国立劇場、ナショナル・シアター・ウェールズの成り立ちに関心を持って町と人のリサーチを行った。近年は、庭、植物、家、死生観、物語に関心を持つ。

  • 今までの作品について

    私は演劇を軸とした活動に携わってきた。演劇といっても、その考え方を活かしたもので、エキスは演劇だけれど、アウトプットはいわゆる舞台で上演する形にはこだわらない。(映像インスタレーション、対話を目的としたワークショップ、家や町にフィクションをインストールする、など。)

    いずれも様々な専門や個性を持った人たちとの集団創作を特徴とし、プロジェクトごとにチームでのコンセプトメイク、対話を重ねて進行していた。作品として発表するものだけでなく、思考やリサーチを目的とすることもあった。また役割を固定せず、ときには制作、リサーチャーやコーディネーター、ときには出演者としてなど、プロジェクトごとに役割を変えていたことも、私の活動の特徴である。

  • 今回のリサーチテーマ

    個人として、日頃から植物/喪失/庭/記憶などの関心を持っていた。それらは自ずと影響してくると思い、リサーチではなるべくフラットに町を歩き、思考を固めすぎないこと、そこで感じることを大切にしたいと考えていた。

    レジデンスが始まる前に、アートプロジェクトにおいてよそ者が地域に入っていくとはどういうことか、このリサーチにおいて自分は何者なのか、どういう身体であったらいいのかを考えた。でてきた答えは「幽霊」であった。幽霊のように町をただよいたいと思った。私は、あくまでよそ者である。滞在期間が終われば去っていく、いなくなる身だ。時間がたてば、「そこにいたような、いないような…。」実に曖昧な存在になる。とめどなく日常の時間が流れる町という場では、とくにそうだろう。でも、幽霊だからこそただよえる。幽霊が人の間に交わることで、町を歩くことで、どんな影響、痕跡をのこしうるのか。それが私の一つの問いであり、スタンスであった。

    結果的に、このレジデンスプログラムのリサーチにおいて幽霊であることはなかなか難しかった。一つは生活上の理由(後の項目〈コミュニケーション〉で追記する。)、もう一つはこのレジデンスが次年度「作品をつくる」という明確なゴールを持ち、想像していたよりもそれに向かってくっきりプログラムされているように感じてしまったことにある。作品をつくること、そのプランをつくること、それを発表することに意識が縛られ、自分の行動を狭めてしまったように思う。短期間、かつ単独でアウトプットの方向付けを行う難しさを感じた。

    滞在前半は天候に恵まれず思うようにリサーチができなかったが、地元の方との立ち話やお家にうかがってのインタビュー、1日中町を彷徨歩いて観察すること、自身を保つために歌を口ずさむことなどを通して考えたことを、成果報告展で発表した。次のリンク*から、そのテキスト一覧を参照できる。(https://www.evernote.com/pub/ayanoikegami/Wazuka)ここでは、一部を掲載する。(会場には、それぞれのテキストに対応する映像や音、写真を用意した)

    《家と人》

    リサーチメンバーのユジンさんと、湯船地区で1人住まいする80代の女性に話を聞きに行った。築約200年ほどたっているというお家で、彼女の人生の話を聞いた。
    結婚後、義母に「家の中に二人も女性はいらないから」と言われ、外でいろんな仕事をしてきたこと、ずっと外に出ていたから子育ての思い出はなく、義母が子どもを育てていたこと、早くに旦那さんを亡くし、ひとりで義理の両親を介護したこと、それが苦じゃなくて、それができて幸せだったということ。着物をリメイクして洋服や壁かけ、クッションカバーなどを繕うことが好きでとても楽しいと、服や鞄を部屋の奥から持ってきて見せてくれた。都会に住んでる人には「こんな田舎に住んでて、楽しい?」と聞かれることもあるけれど、とっても楽しい、繕いをしているとあっというまに時間が過ぎてしまうし、草引きとか家の掃除とかやることは他にも沢山あって忙しい、と生き生き語った。時代も相まり、女性の人生と家の結びつきは強い。家はこの女性の精神に溢れている。彼女が家を守り、彼女を通して家は生きている。

    お子さんがいるということで、この家はこれからどうするのか聞いてみると、子どもたちがこの家を管理するのはとても無理だと思う、私の代で終わりとわかっている、という。話を伺っている最中、ちょうどご近所の60代の女性もいらっしゃった。彼女も、子どもは東京で働いて家族を持っていて、戻ることはないそうだ。だから自分の命の仕舞い方、家の仕舞い方、そして畑の仕舞い方を真剣に考えなければいけないと言った。その物言いは妙にはきはきとして、そこにあるのは暗い表情ではなかった。なぜだろうか。

    女性たちと話してから、家は肉体、そこに住む人は精神、家と人が一心同体の、一つの生態のように思えた。

    日暮れ時、川向こうに湯船の家々をながめる。
    6軒中、灯りがともるのは2軒くらい。ほとんどが、人の手の入っていない空き家だ。最後に住んでる人が亡くなって、子どもたちは都市部など遠方に住んでいて、そこに戻ることはなく、そのままになっている家が多い。その家々は死を象徴するようにも思えて、屍がたくさん並んでいるような気がしてきた。朽ちるのを待つだけの、屍体。
    あと20年もたてば、今回話を聞いた人々の家もその一つになるだろうか。

    別の集落の話。

    原山という地区で、お母さんの家を空き家バンクに登録して売ろうとする60代の男性に話を聞いた。その家には、男性のお母さんがひとりで住んでいた。10年以上前に亡くなったそうだが、男性とご近所さんのこまめな手入れがあって、庭も家もどこか凛としていた。

    男性には娘さんが二人。普通に考えると、どこかに嫁いでいく。奥さんの説得もあって、子どもたちの負担にならないようにこの家を売ることを決めたという。
    決めたのだけれど、だけど、体の隅っこには、ほんとにこれでいいのかなという思いも、ちょっとだけあるんです、本心には、売りたくないという気持ちもある、と話した。
    体の隅っこでくすぶる何かについて聞いてみた。
    「もどれなくなる」「生まれ育った、この、地面、この狭い、この土地に、自由に入れなくなる。その、…そういう、権利、を、なくすつらさが、あるんだろうなと思う」「わからない。実際売ってしまえば、案外すっきりするのかもしれないけど」と小さく笑った。

    男性は、お母さんに女手一つで大学までいかせてもらったという。そして会社に務め、結婚し、家族をつくり、転勤をくり返しながら二人の娘を育てた。母親のことを振返る。
    「母はね、すごい人だと思いますよ。高校のときは、朝ご飯作って、弁当を作って、6時すぎのバスにぼくが乗れるよう出してくれた。炊飯器のない時代です、朝は何時に起きてたんでしょうねぇ」 「ぼくは勤めていたけれど、それでも娘二人を大学出すのは大変だった、正直しんどかったですわ。それを母はひとりで。大変やったと思います」
    「ぼくのところに、たぁくさん男の子がいたらね、誰かにこの家を継いでもらうこともできたんでしょうけど、まあ、そううまくはいかなかったわけですわ」

    生活様式や経済の変化、核家族、人口の減少。時代の波がうねっている。ひとりの力ではどうにもならないことが絡み合い、その渦のなかに現状がある。 日本は、どこにどう流れてゆくだろうか。和束にいると、それを真剣に考える。 (以上、成果報告展配布資料より。)

  • コミュニケーションについて

    i.共同生活in湯船から考えたこと

    個室がないことはわかっていたが、初対面の7名による日本家屋での共同生活は想像以上に堪えた。部屋の仕切りは襖や硝子や木が合わさったもので、音が筒抜ける。宴会の声がする中では寝にくいし、すでに交流のある親しい面々であればよいだろうが、初対面の6人と、地域とのコミュニケーションにも気を張るという非日常のダブルパンチに苦心した。人や空間に馴染むのに時間がかかった。

    リサーチ後半、メンバーとの生活は慣れてきたものの、滞在先の湯船は和束の町中から離れた奥まった場所にあり、暗くなって戻ってくるともう他に向かえる場所がない。身動きがとりにくい点があって、都市部の生活に慣れているメンバーたちは鬱屈としていた。これは東京にもどりながら気付いたことだが、都心には「抜け道」がたくさんある。夜ふらりと出かけたり、飲食店に入ったり、カラオケに行ったり、大衆に紛れたり。湯船には「抜け道」がなかった。小さな商店や自販機すらなかった。パブリックな一息つける場所、娯楽がなかった。私たちは、その地区の片隅に、ぎゅっと固まっていた。私は気晴らしに一度だけ、30分ほど車を走らせたところにある公衆浴場へ行った。あとから考えると、少しでも違う空間に抜け出して、大衆に紛れたかったのだと思う。私は東京で、随分隠れて生きてきたのかもしれない。東京は、人に紛れて、匿名で生きられる場所なのだ。

    コミュニケーションをとらざるをえない状況により会話の中でリサーチ内容のシェアがされていたことや、2週間滞在したことでしかわからない閉塞感、鬱屈が暗黙のうちにメンバーの中で共有されていたこと、またその鬱屈があったからこそ生まれた表現や議論があり、結果的にここでの滞在は多いに意義があった。

    ii.役場の方をはじめ、町の方とのコミュニケーション

    率直に、アート関係の事業でこんなに協力的な役場の方にお会いしたのは初めてだった。インタビューの希望や関心事を伝えると即座に地元の人を紹介して下さるなど、そのスピードには驚いた。印象的だったのは、打上げの席で「公務員一人でできることなんて、たかが知れてるんです。少ない人数で、住民の生活守って、この町をどうにかしなきゃいけない。公務員だけじゃ、無理なんです。だから、人とつながること、ネットワークを持つことが大事だと思ってます。今回も、その一つの機会」と言っていたこと。現状を冷静に捉えて限界を知りながら、公務員として何をすべきかを考え、その仕事に誇りを持っているように感じた。そんな能動的な公務員さんに会うのは初めてだった。住民の方もオープンで、道端で話しかけても不審がらずに率直に話をして下さる方が多かった。若い人が町に少ないこともあるのだろう、いろいろなことを積極的に語って下さった。また、私たちのことを気にかけて、手作りのおかき、かぼちゃの煮付けや肉じゃが、天ぷらなどを差し入れて下さることがあり、地元の人の温かい料理を味わえたことは至福だった。お家を訪問したさいには土間にある応接椅子とテーブルで話をし、趣味について熱く語り、洋裁やお習字などの作品を見せて下さるなど、家を通じてはじめて湯船の人、暮らしを肌身で感じることができた。つないで下さった役場の方、また快くインタビューを受入れて下さった住民の方々に、感謝している

  • ハプニング

    ハプニングには、「①思いがけない出来事、偶発的な事件。②意表をついた出来事がもたらす表現効果を積極的に追求する芸術表現。」の2つの意味がある。ここで私が取り上げる事象は、双方の意味を内包しているかもしれない。だが一方で、必然とも捉えうる事象だった(ここでは仮に〈ハプニング〉とするが)。とにもかくにも、私にとっては想定外の出来事で、しかも想定外に救われ、けれど今も鬱々とさせ、考え続けざるをえない状態にさせた事象。正直なところまだ整理できておらず言葉にするには尚早なのだが、リサーチの報告として大事な部分であるため、その事象に関する考察を、あえて書き始めることにした。それを踏まえて読んでいただけたらと思う。

    i.水色の海坊主のGood!?

    湯船の和束清水橋を渡ってすぐ、廃墟の崩れかけた壁に、道路に向かってグぃ〜ンと腕をのばして親指を上に立てた、水色の海坊主みたいなのが描かれていた。車を運転しながらそれが目に入ったとき、最初は首をかしげた。「これ、あったっけ?気付かなかっただけかな、いやなかったような…」と。だけど思わず笑みがこぼれた。私にはその手がGood!のサインに見えて、「ダイジョブダヨ!コノマチ、マダイケルヨ!」そんな声が聞こえたからだ。私はその絵に救われた。

    ii.前提

    なぜその絵に救われたのか、そのときどのような心情だったのか、前提を共有したい。その絵を見たのは湯船に滞在して10日目くらいのまだ明るい18時頃、その日の活動を切り上げ、和束の町中から山の奥まった湯船に車を走らせながら「あぁ、湯船のあの家(滞在先)にもどったら、今日ももう終わってしまうなぁ」と体に重しがのるような心持ちのときだった。

    湯船という場所が嫌いなわけではなかった。そこで生活を営む人のことは尊敬しているし、とても好きだ。外から来た初対面の私たちに、過去の人生の話や家庭の経済事情まで隠すことなく語ってくれる心の開き方、こんな話が聞きたいと伝えればすぐに人をつないでくれるフットワークの軽さと壁のなさ、とても魅力的な人たちだ。ひとりでは生きられない場所なだけに、「卵かして」と言って卵一つもらったり、インフルエンザになればご近所さんが戸の前に煮しめを置いてくれるような関係が成立しているという。

    それでも私は、行き場のない鬱屈感(〈コミュニケーション〉のⅰに詳細)と、川向こうの灯りのつかない家々、植物に覆われた小屋、橋の真ん中にのぞく瓦も柱も崩れかけた家を毎日見る中で、心沈んでいた。住んでいる人も、「この家は自分たちの代で終わり」と終わることがわかっている。朽ちゆくことがわかっている集落。住人に話を聞くほどに、今がこの集落の曲がり角にあることを感じた。もう曲がったか、曲がりきる寸前の、曲がり角。2、30年後のこの集落はわからない。始まりがあれば、もちろん終わりはある。死は生のうちに含まれているとも考えられる。しかし私はまだ、この集落にどう向き合うべきかわからず、ネガティブな「終わり」だけが頭から離れないでいた。そのとき目に入ったのが、海坊主がグぃ〜ンと腕をのばした絵、Good!だった。励まされた気がした。「ダイジョブダヨ!コノマチ、マダイケルヨ!」って。

    iii.絵を描いた人

    絵の雰囲気に、少し心あたりがあった。リサーチメンバーのひとりが夕闇の中で描いたらしい。私は「青い絵があった」と笑って滞在先にもどり、Good!に見えたこと、感じたことを話した。彼は自分が描いたと明言こそしなかったが、私の感想を面白がりながら「あそこ元はガソリンスタンドだったんですよ。だから手のばしてヒッチハイクしてるんっス。俺も乗せてくれー!俺のこと忘れないでくれ、置いてかないでくれー!俺もこの先に、未来に連れてってくれー!って言ってるのかもしれない」絵の解釈は見る人の自由だからなんでもありだと彼は言ったが、私は彼の言葉を聞いて、また水色の海坊主に会いに行きたくなった。彼の絵は、町の叫び、場所の声だったかもしれない。そして、未来への願いを込められる拠り所、希望になり得るものだった。

    iv.絵が描かれた場所

    絵が描かれていたのは、「終わり」が象徴されたような場所だった。和束の町中から山を越え、湯船に入ってすぐ、廃墟となった元ガソリンスタンドの崩れかけた白い壁。隣りには、一段下がったような位置に元商店の廃墟もある。蛍光灯で光っていただろうガソリンスタンドの看板は横たわり、崩れた発砲スチロールの箱に植物が植わっていたらしき跡、奥には白い塗装がはげたワゴン車、その中には白い紐のようなゴミのようなものが詰め込まれていて、よく見ると色の抜けた藁だった。商店の窓硝子は割れ、足場のない中の様子が見える。入口には、不法投棄だろうか、空き缶のゴミ袋が積まれていた。かなり激しく荒廃していた。

    v.塗りつぶすに至る

    その場所に唐突に現れた、絵。彼は地元の人に断りを入れることなくその絵を描いていた。そして無断で絵を描いたことは、当人や他のリサーチメンバーが思っていた以上に大事となった。成果報告展での彼の発表は、一部の来場者たちの、目に見えるほどの冷やかで重い、頑なな圧に包まれた。彼は発表内容ではその絵について触れなかったし、彼が絵を描いたことについてその場で非難する声はなかったが、残念ながら彼の言葉を聞き入れる耳はそこになかった。彼もそれを感じたのか、自分がなぜ町の中に絵を描くのかうまく言葉を紡げていなかった。「描きたくなってしまう」、その衝動は大事だ。だが、気分次第では世界遺産にも平気で描きかねないような、誤解を与える言い方はよくなかった。

    正直なところ、私もこの空気感には驚き、戸惑った。町役場関係者は彼を、ゆるされないことをした人、変わった絵を描く、ただ落書きをする人としか見ていなかった。たしかに、放置されていたとしても誰かの敷地に無断で描くことは法律的にはまずい。京都府の助成金で運営されている公的プログラムでの一件ということも問題だし、出来る限りの協力をしようと動いて下さっていた役場の人にしてみれば気分が悪いのもわからなくない。しかし、そこには無断で描かれたこと以上の怒り、態度があったように思う。これほどの反応になるとは思わなかった。

    私には不可解だった。廃墟の元ガソリンスタンドも、その横の元商店も、よそ者である私たちには相当酷い状態に見えた。けれどその場所が気にかけられる様子はなく、誰の目に止まることもない、もはや存在の無い景色、無形の場のように思えた。荒廃しきり、ゴミが投棄されることは気にも留められないのに、なぜ、あの絵にここまで反応するのか。私はその感情的で反射的な反応に、町の蠢きを感じた。

    成果報告展の打上げの夜はメンバーやスタッフで意見が交わされたが、ゆるされることかどうか、まずいことかどうか、手続き上どうすべきだったか、所有者の親族の怒りがおさまったか等の議論に終始していたのは残念だった。その場所に絵を描くという行為に彼を突き動かしたもの、そして描いた絵そのものについて、この町が抱えてきたこと、町の人の反射的な反応の背景、これからのこの町の行方について等、掘り下げればもっといろいろなことが、この件から議論できるはずだ。何よりも残念だったのは、成果報告展での彼の発表直後、静まり返った空気をポジティブに転換し、感情的な来場者の心を治められる人がいなかったこと。絵が描かれた場所が持つもの、その絵にどんな解釈がありえたかを、物語として公然と伝えられる人が欠けていた。絵の解釈はあくまで自由だが、アーティスト当人ではない第三者によって一例として物語を共有できれば、一歩先へ進むことができたかもしれない。

    この状況に対して自分自身の整理がつかなかったという彼は、誰に言われたわけでもなく、絵を白く塗りつぶすという行為を選択した。「白のペンキで線を引いて塗りつぶすこともまたドローイングと言えるし、絵は描こうと思えばまた描けるから今は消します」と。

    vi.希望と絶望について

    湯船の住民とインタビューなどを通して交流する中で、不思議に思っていたことがある。皆、飄々としているのだ。希望も見ていなければ、絶望も見ていない。草引きをして、畑をして、自分の家の掃除をして、食事を作って洗濯をして、毎日を忙しく過ごしている。「この家も、私の代で終わり。子どもたちがこの家を管理するのは無理ってわかってるから。」わかっているのだ、自分の家が終わることも。自分の家の行く末と、すぐそこの瓦が崩れた家とはつながらないのだろうか。話をしていても、絶望は見えない。たしかに住みながら絶望なんてしていられないけど、それでも私は不思議でならなかった。

    腑に落ちない私に対して、和束の町中に移住して間もない若者はこう言った。「絶望なんて、とうの昔にしきったんじゃないか? 集落の先が見えないことは、本人たちもずっと前にわかってたと思うよ。どうにかしようとしただろうし、どうにもならなかったんじゃないかな。絶望はもう、2、30年前に終わってるんだよ。」

    そうか、湯船の住民はもう、絶望の先にいるのだと私は思った。「林業がだめになって、茶がだめになって、それでトマトを始めたんだけど、それもだめになって」と言っていた。絶望とか、希望とか、そういう感覚はとうに脱ぎ捨てたのかもしれない。崩れた家も、ゴミだらけで廃墟のガソリンスタンドも商店も住民には当たり前の景色で、もう見えもしない、無形のものとしてあったのだ。それをあの彼の絵が、有形にさせたのではないか。今まで通り過ぎていた場所は、目を、足を、止めざるをえない無視できない場所になった。「これからこの場所どうするのですか」「この町はどこへ向かいたいのですが」という問いかけとも捉えられる。人によっては、その場所を通して再び絶望を見たかもしれない。

    怒りの中には、「この町を守らねば」「もとの状態に戻すべき」という思いも感じ取れた。それらは廃墟に絵を見たときに反射的に沸き起こったものだろう。しかし、私は考えてしまう。この町を守るとはどういうことか。絵を白く塗りつぶして無いものとすることは、もう一度あの場所を無形化することだ。誰も気に留めない、目に止まらないものに戻すということだ。これまで通りにその状態を維持するということは、ただ朽ちゆくこと、町の死を待つことにつながりはしないだろうか。もし自覚的に、朽ちを見守って出来ることをしながら静かに終わりを迎えたいと望んでいるのならば、それも一つの選択だ。だが、町をどうにかしたいと思いながら、異物に対する反射的な拒否反応として、無自覚に「もとの状態に戻すべき」と思ったのであれば、今一度、議論の機会を設けてはいかがだろう。実は住民の中には、「ようけ描けてたのに、消しちまったのか」という反応を示す人もいた。あの絵には人の数だけ様々な反応があり、一人の人物でも社会的立場と個人の声とで違いがありそうだ。

    今、廃墟の元ガソリンスタンドの崩れた壁には、絵に沿うように真新しい白のペンキが重ねられた跡がある。この町の未来への祈り、希望を、皮肉にも町自身が打ち消してしまっていないか、私は問いたい。

    vii.許可の問題/アーティストの真摯さ

    誤解のないように言うと、私は無断で他者の私有地または公共の場に絵を描くことを推奨するつもりはない。とくに日本で、そして公共事業でその行為はまずいという意見には頷く。それに、下手をすると、身勝手な芸術表現による町への暴力とも捉えられかねない(今回、物語を伝えられなかっただけに実際にそう受け取って傷ついた人がいないか心配だ)。何もしていない私は偉そうなことを言える立場にないが、アーティストにはそれを治める意志や覚悟、またはそれを補える言葉を持ったパートナーが必要だったと思う。

    しかし、たとえそれらを棚に上げても、私個人は今回の彼のアクションに敬意を示したい。湯船の現状、鬱屈を捉え、自分の技術で真摯に向き合い、感覚的にであれ課題を孕んだ場を選び取って実際にアクションを起こしたことは、アーティストとして、真摯な態度であったと思うのだ。

    許可を得ようとしなかったことについて役場の人に聞かれたとき、彼は「ここならば大丈夫だろうと思ったのが、正直なところです」と言っていた。私はというと、常識的に考えれば人の土地にそれはアウトだと知っていた。だが、頭の半分では、彼の言葉にすんなり頷いていた。湯船で2週間生活をする中で、暗黙のうちに場所の無形性は共有されていたのだ。

    廃墟のガソリンスタンドは、荒れすぎて許可が必要な場所には見えず、もし所有者が存命していたとして町に不在であることは明らかだった。とすると、役場の人に断りを入れたところで許可を見込める場所ではない。また、彼は他にも絵を描きたい複数の候補地を挙げて役場の人に相談していたが、独特な絵や色使いから難色を示されていた経緯があり、「抜け道」を求めていた。

    もし仮に許可がとれたとして、その場合にあの絵が生まれたかはわからない。絵を描かざるを得ない心理状況、場所への衝動も、あの表現には影響していると思う。町を蠢かせ、強く問いかけることにもならなかっただろう。町が抱く感情や「守りたい」という意識が露わになることもなかったにちがいない。

    viii.畑のおじさんが求めていた、変化への→(矢印)

    ひとりで歩いてリサーチをしているときに石寺という地区で出会った、おじさんの言葉を思い出す。畑仕事をするおじさんに話しかけ、私がなぜここに来ているのか、アートに関わっていること、Re-Search in 和束のことを伝えると、おじさんはこう言っていた。「この町見てどう思う?」「失敗してもいい、失敗してもいいから、この町が変わる、この町を変えるような方向性を持ってやって欲しい。」文化とは何かと問うたり、政治や組織について話したり、熱を持ったおじさんだった。

    壁の絵の話に戻る。いろいろな非難やお叱りの声があったが、彼の表現とアクションは、白で塗りつぶす行為も含めて、結果的に幾つかの歪みや問いを誘発した。それらは未来へ向かうためには避けて通れないもので、変化への→(矢印)を有するものではなかったか。私には、あのおじさんの言葉が体現されていると思えてならない。彼のアクションに始まる一連の〈ハプニング〉を通して、ストリートアート、絵を描くということの可能性をはじめて実感した。

  • 今後の展開

    二つのことを考えている。

    i.聞き取り

    立場や世代の異なる人たちから、元ガソリンスタンドに絵が描かれたときに感じたことやその周縁について聞き取る。直接人を集めて議論の場を持つことは現実的に難しいし、土地ならではの住民同士の関係性もあって、顔を合わせた議論では本来の個人の声は聞こえづらい。そのため、自身を媒介に話を聞く。町という生き物を知る機会になりうるのではないか。

    ii.「共」について

    湯船に滞在しながら感じた鬱屈と絵の一件から、この地区には「抜け道」や「間(あいだ)」が欠けているように感じた。「個」と「公」の狭間である「共」がないのだ。今回、〈ハプニング〉を考察することで気付いたのだが、これは人だけでなく家や土地にも当てはまる。無人にも関わらず家や土地が「個」を脱げないから、許可のとりようのない、誰も触れられない無形の場所、ないしは浮遊地帯は生まれる。 成果報告展では、家と人に関する映画制作や上映会をプランの候補として伝えたが、そこに留まらず、リサーチの継続、アイディアを転回させる必要を感じている。
    今後は、家の内側にある個人の生活、生き様により深く関わってみたい。リサーチで特に印象に残った、家とそこに暮らす人の関係について、それを炙り出し、現在進行形で住人が暮らす家の中で何かをできないかと思案している。

    (2019.09.30)

Copyright © Kyoto Prefecture. All Rights Reserved.