フィールドパッチ

京田辺の

中世から続く歴史ある旧村エリアから、数十年の間に開発された山手の新興住宅街まで、京田辺の住環境は非常に多彩で、かつ周辺都市へのアクセスの良く、今でも人口は増加を続けている

昔ながらの集落の姿を今に残す旧村から、昭和の趣を残す団地、そして山手に広がる新興住宅街まで、京田辺には異なる時間軸をもった住環境が共存している。人々の暮らす場がどのように形成されてきたのか、その歴史を振り返ってみよう。

話を聞いた人:
奥西さん(京田辺市)
宮崎さん(京田辺市)
中下さん(京田辺市)

京田辺の住居

歴史が育んだ住環境


京田辺市の南東部、木津川ほとりに飯岡と呼ばれる標高67mの低い丘がある。ここには弥生時代の集落跡をはじめ四世紀から六世紀の古墳が数多く見られ、現在にわたるまで人々の暮らしが営まれてきた場所だ。飯岡に限らず、京田辺内の各集落の歴史はとても古い。奈良時代、律令制が敷かれるようになると、京都(当時は山背国)と平城京をつなぐ古代山陰道の要所として現在の三山木に「山本駅」が置かれるなど、重要な地だったことがわかる。薪、草内、大住、松井、飯岡、興戸などもこの時期にはすでに存在していたと考えられている。これら街道沿いに発展した集落は、自治意識も高く、周囲を堀で囲うなどの特徴を持つものもある。この地で代々暮らしてきた人々によって地域の伝統が今も継承されている。戦後の宅地開発は、こうした旧村の外縁を拡張するように、もしくは背後の山手を切り開いて進められてきたと言える。

大規模な宅地開発の経緯


京都、大阪、奈良のほぼ中間に位置し、JRと近鉄の2路線と3つの高速道路(うち一つは自動車専用道路)が市内を通っている京田辺。昭和40年半ば以降、京阪奈地域のベッドタウンとして新興住宅地が次々と開発され、それまで2万人台だった京田辺市の人口は7万人を超えるまでになり、今も増加が続いている。
 中部で宅地開発が進んだのが新田辺駅東側だ。現在のキララ商店街を含む範囲が開発され住居の建設が進み、街の中心として発展した。府営の田辺団地も駅の東側に建設される。その後平成に入ると、駅の西側、JR京田辺駅と新田辺駅の間が区画整理され、大型の商業施設もできるなど盛り上がりを見せるようになる。
一方北部では、集落の南側に位置する山の手が、片町線に沿うように開発され大規模な住宅地が形成されていく。1972年にまちびらきが実施された松井ケ丘から始まり、大住ケ丘、花住坂という順に開発がおこなわれ、新たに松井山手駅が新設されることになり、駅周辺を中心にさらに発展するようになっていった。今では最初期に建設された住宅が早くも建て替えや改修時期を迎えており、住宅地として成熟しつつある。
南部の三山木駅周辺でも進められてきた区画整理が終わりに近づき、商業施設が増えたことで、今後の人口増加が見込まれている。加えて三山木駅の西側、多々羅地区の山手には、同志社山手という名の新興住宅地がつくられ、周辺地域から人々が移り住んできている。
このように未だに京田辺市の住宅地は大きく発展を続けている。京田辺市としては、目標人口の8万人を目処に、住むだけではなく、市内に働く場所をつくり、雇用を生み出すことで、人々が長く暮らし続けられるまちづくりを目指している。

京田辺を構成する6つのフィールドから見る

フィールドの縫い目から見る