
ONO Takayasu
小野 峰靖
今日の自分が何を忘れていて、これから先何を忘れてしまうのか把握できない境遇において、目の前の情景を無責任に物質化できる写真の機能を「忘失のメディア」とみなしその作用を様々なフィールドで検証している。
https://oua193.wixsite.com/onotakayasu/202-2
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今までの作品について
「忘失ってどうゆう状態なんだろう」という考えのもと、そのイメージを手探りで追っている。
いつか取り壊される予定の廃アパートに写真を置き続けたり、火事が多かった街の空き地に鏡を建てて、そこから見える家の写真をその鏡に貼ったりしていた。 -
今回のリサーチテーマ
テーマを掲げず、街の日常に身を任せて動いていた。
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コミュニケーションについて
リサーチ初日に滞在施設の近所を散歩していたら、お墓の前でフジヱさんという92歳のお婆ちゃんと出会った。フジヱさんは「親より先に死ぬなんてこの親不孝もん!」と言いながらお墓を叩いていた。話を聞くと、息子さんが3年前に亡くなったそうだ。なんだかんだ仲良くなり、家に遊びに行くことになった。家では義娘の智代さんがお餅を焼いてくれた。
その後、智代さんの昔話を聞いたり、一緒にドラマの再放送を見たりしていたら、夕飯も一緒に食べることになった。フジヱさんと智代さんは普段は夕飯を別々にとるらしいのだけど、この日は5畳ぐらいの居間で3人で食べた。フジヱさんが「智代さん、息子ができたみたいやな~」と言っていた。
その日以降、智代さんとコーラス教室に行って一緒に童謡を歌ったり、お琴の演奏会を聴きに行ったりした。智代さんは3歳の頃からお琴をはじめているので、琴歴71年のベテランだ。家で毎日弾いてるらしい。演奏会の時にはみんなから「先生」と呼ばれていて、普段よりかっこよく見えた。
家の向かいの畑では、フジヱさんがよく野菜のお世話をしている。挨拶をしたら、じゃがいもとほうれん草を分けてくれた。 -
ハプニング
智代さんとコーラス教室に向かっている途中、智代さんが山を指差して「私が小学生の頃ぐらいに亀岡のどこかの山にあった池が大雨で氾濫して、丸坊主の尼さんが大阪まで流されたのよ。」とぼそりと言った。詳しいことを聞いてもあまり覚えていないようだったので、帰りに亀岡市文化資料館で調べてみたら昭和26年に亀岡で起きた水害事故「平和池決壊」だと分かった。
資料によると、〈「平和池決壊」とは、昔「平和池」と呼ばれていたダムが大雨で決壊し、104名の方が亡くなった水害事故。「平和池」はもともと敗戦後の国の産業復興を掲げて建設された、防災機能と灌漑機能を合わせ持った新タイプのダムであり、大正時代から戦前まで何度も町が計画しては実現しなかった農業施設が実現したことで町当局の喜びは大きく、その愛称についても一般公募で呼びかけられ、当時中学生だった男の子の「平和池」が採用された。〉との事だ。
昭和24年に「平和池」は建てられているので、たった2年で姿を消してしまったことになる。
今の亀岡の街にとって「平和池」はどのような存在なんだろうと思い、いろんな人に「平和池」について尋ねてみたが、街の人は「平和池」のことを知らなかった。「平和池跡地」に行ってみた。草が茂り、小川が流れていて、ゴミが捨てられていた。 何にもなかったような場所だった。
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今後の展開
コーラス教室の先生に帰り際「今日が楽しかったなら次回もおいで」と言われたので、また行こうと思っている。フジヱさんの畑仕事を手伝ったり、今度はより長く街の日常に参加したい。
今のところ決めているのは、どこかのタイミングで亀岡の人達と街の写真を撮る撮影会をすること。そして、その中の誰かが撮った写真を一枚だけ、誰にも見せずに「平和池跡地」に持って行く。
「平和池跡地」には立ち入り禁止になっている区域があり、中には当時の「平和池」の操縦室だった建物がある。そこに写真を置く。
立ち入り禁止になっているので誰もそれを見る事はないのかもしれないが、これからも忘れられ続ける「平和池」に、この街の誰かの「今日」を付き合わせ続けたい。