
NAKAYA Yuuki
中谷 優希
北海道 釧路 出身 東京藝術大学 先端芸術表現科 在籍
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今までの作品について
ある現象から物語を展開させたインスタレーションや、絵画に描かれた身体を自身の体に移植したパフォーマンス映像などを制作。
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今回のリサーチテーマ
わたしの亀岡での2週間のリサーチ内容は、前半と後半で大きく変化しました。前半はレジデンスの特異点を考え、場所性に留意したリサーチをしていました。霧テラスへ足を運んだり、花踊りを伝承する歌い手の方の取材や、授業で花踊りを体験した生徒にアンケート調査を行うなど、亀岡の土地では主に花踊り/丹波霧/(馬路大納言)について興味深く探求を進めていきました。
例えば花踊りは、雨乞の儀式の最終手段として行われる踊りです。花踊り以前に試される雨乞いは、個々人で行えるものが多いです。そのことから、個人から集団へ移行する儀式の流れや、その集団性のハードルの高さなどに着目し、いくつかのプランを計画していました。
リサーチの順調さに反して、わたしの中では(特に日本での)レジデンスという仕組みに対する違和感が大きくなっていきました。固定化されたセオリーを感じざるを得ない、場所性/地域性に依拠した作品のテーマ。それらの作品に期待される幻想のような、その土地の人とのコミュニケーションや地域の活性化。地域のネガティヴな側面を捉える/表現することへのタブーな空気。
レジデンスを想定した制作が息苦しく感じるのは、「外からある土地へ入る」という、そもそもレジデンスの仕組み自体が保持している外部性にあると考えました。
外から来た者だからこそ期待されること。外から来た者だからこそ言えないこと。レジデンスとは切っても切り離せないこの外部性について。この息苦しさを越えて制作するためにも、自分は外から来た人間であるということに自覚的であり続けるためにも、レジデンスの根本に関係する外部性についてが後半のテーマとなりました。 -
コミュニケーションについて
「他者を介して自分をみること」は、自己を捉える術として常套句のごとく耳にしますが、わたしはこのレジデンスで、それを強く意識させられることとなりました。アンケートに無記入の生徒、一度集まったグループが再び離散した理由、プライベートのない2週間の共同生活、活動的な同居人の姿勢、第一線の作家やキュレーターによる講評、美術から遠い人たちとの交流、思い出すと枚挙にいとまがないです。一つ一つは際立って珍しい経験ではありませんが、それが短時間に継続的に起こることで、わたしは非常に憔悴しました。この経験から、日々自己を知ることの衝撃を引き受けていこうと考えました。
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ハプニング
レジデンスの外部性について自覚的になったのは、意外なタイミングでした。レジデンスへの振る舞いに迷走した中間講評の翌日、亀岡から外にでて隣の嵐山へ行きました。その時はまだ、レジデンスの外部性についてまで思考は及ばず、この息苦しさの原因を考え続けていました。2週間前に嵐山を訪れた際に清涼寺で拝観した国宝、御本尊の体内から出て来た絹製の臓器のことが忘れられず、わたしは再度 清涼寺へ向かいました。その日は目当ての臓器のほか、前回訪れた際には見ることができなかった御本尊、そして江戸時代後期の画家 狩野一信が描いた『五百羅漢図』を拝観することができました。
『五百羅漢図』この絵画は第1から100幅まである絵画で、1幅に5人で計500人の羅漢(阿羅漢、修行をした偉い人たち)が描かれている仏画です。はじめ遠くからこの絵画をみたとき、宇宙飛行士が描かれているように見えました。近づいてみたのですがやはり宇宙飛行士がいました。
正確に言えば、描かれた羅漢からでている光背(仏身からでる光を象徴化したもの)が、宇宙飛行士のヘルメットのようにわたしには見えたのです。宇宙飛行士から、ぼんやりと連想された多様なイメージのその一つに、エイリアンがありました。何となくエイリアンについて考えていた時、現在のわたし(亀岡にとっての自分)もエイリアンであること、つまり外から来た人間であることに、その時ようやく自覚的になったのです。(エイリアン(alien)とは、よく想像されるようなSFの宇宙人のことだけではなく、「外国の」「~とかけ離れた」「~と調和しないで」「~と相いれなくて」というような広い意味でのエイリアンです。つまりエイリアンとは、外からある土地に来た誰か・何かのことをだと考えています。)
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今後の展開
今後の展開として個人の作品と展示の導線についての、大きく分けてふたつの流れを考えています。
まず個人の制作についてですが、外部性からパッキングについて考えました。パッキングとは何かを包むことですが、わたしは特に密閉性のあるものに限定したパッキングのことを「そのままの状態では特定の場所に存在できないものを、無理矢理そこに存在させるための方法」だと考えています。例えば地球から飛び出した宇宙飛行士は、生身の状態では宇宙に存在することはできませんが、ヘルメットや宇宙服という密閉性のある装備に身を包むことで、宇宙に留まることができます。今回の滞在でわたしが感じた息苦しさから着想し、外から来ることの苦痛を越えて、その土地に留まる術をパッキングの特性から考えました。
また自身の作品では、絵画の身体を移植したパフォーマンス映像などを制作しています。この作品で重要なのは「止まっている体」です。真空にされた密閉袋の中の物は、動くことができません。この特定のパッキングから、絵画以外の止まっている体について考えることができないかを模索すると同時に、外部性についてのパフォーマンス作品を構想しています。次に展示の導線についてです。今回このレジデンスに参加している私たちは、今はまだ名の知れた作家ではありません。そんな私たちがどうやって鑑賞者を増やすか。また、特定の地域内に点在する鑑賞ポイントを巡ったり古民家などを使用するような、近年多発している芸術祭や地域アートの形式を越えるためにはどうしたらいいか。これらの問題に、このレジデンスの講師 目[mé]が、亀岡の地形を活かした鑑賞の導線にすることを提案してくれました。作品(演劇などの舞台美術を除く)の鑑賞は通常ひとり、多くても数人程度だと思います。そして鑑賞者は、自身の判断で鑑賞する作品の時間やタイミング、距離を決めることができます。もし、亀岡の地形を鑑賞の導線に活かした場合は、集団での行動や時間的制約のある新たな鑑賞体験になると考えています。また立ち止まって観る普段の鑑賞方法とは違い、地形を活かした鑑賞の導線では鑑賞者の体は常に動き続ける状態になるかと想定しています。このように鑑賞する身体にも、変化が現れるのではないかと思っています。他にも、作品と鑑賞者の間の移動可能な距離もしくは不可侵の領域も、普段の鑑賞とは変わってくるかと考えています。このように亀岡の地形を活用した導線の鑑賞体験には、様々な可能性を感じているため、この新しい鑑賞方法の意義や面白さを確立し、伝えていくテキストを書きたいと考えています。