石神夏希 × 吉田雄一郎 『青に会う 2017.10-11』

舞鶴の日常を上演する
― 語り得ない 「まち」とアートはどう向き合うのか

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1.創作プロセスと問題意識

高松市・仏生山を舞台にした『パラダイス仏生山』(2014-16年)、横浜市本牧、マニラ、メルボルンの3都市で展開した『ギブ・ミー・チョコレート!』(2015-17年)など、その土地に生きる人々の記憶や場所に偏在する物語をリサーチし、異なるコミュニティ同士を接続する独自の手法で、まちを舞台にした観客参加型の演劇作品を創作してきた劇作家の石神夏希を招聘し、本プロジェクトはスタートした。
7月下旬のプレリサーチと9月11日から2週間のリサーチ滞在では、赤レンガ倉庫群、引揚記念館といった歴史的施設、らぽーる等商業施設、商店街、カトリック教会、青葉山と松尾寺、果ては隣町の高浜原発まで市内外の様々な場所を巡り、まちの方々にお話を伺った。こうした愚直ともいえるリサーチを通して最初に私たちの間で共有されたのは、わずか2~3週間の滞在によって獲得される限定された視点で舞鶴を編集し語る、という行為の持つ、ある種の暴力性への危惧であった。
固有の歴史や文化を持ち、様々な人が暮らす、この途方も無い現実のまちを目の前にして、私たちが重視したのは、そのまちについて「何を語るか」よりも「どのように語るか」ということ。つまり、内容ではなく、方法ということになる。
もう一点は、舞鶴とほとんど縁もゆかりもない私たち自身が、まちや人々とどのような関係性を築いていくことができるのか。さらに、様々な立場を持つ鑑賞者が、作品を通して「このまちとどの様な関係性を結ぶことができるのか」。こうした問いについて、これまで石神が実践してきた手法を用いて考えていく、そのプロセス自体を重視しよう、という点であった。
このような問題意識から私たちが選んだのは、物事を客体化し、鑑賞者の眼差しに晒すことで批評的な姿勢を確保しようとする演劇の機能を使って、(私たちが置かれている状況そのものである)このアーティスト・イン・レジデンス自体を演劇化し、鑑賞の対象として提示することであった。
それは「アーティスト」や「キュレーター」と呼ばれる特定の人物が、まちについての断定的で部分的な解釈を行うことについての疑義と抵抗であると同時に、作品というフィルターを通して捉えられるまちのイメージと現実のまちの姿という二つのレイヤー間で起こる想像力の交感によって、鑑賞者自身にまちについての新たな視座の獲得を促す試みともいえる。

2.作品の構成

創作にあたっては前述の企図に従い、引き揚げや軍港といった、舞鶴が既に強固に有しているイメージから一旦離れることとした。そして石神を含む複数のリサーチャーが舞鶴のまちを訪れた際の印象や経験、地域の方々から聞いたエピソードを収集。それらに基づき、石神が舞鶴のまちを舞台にした戯曲を執筆した。戯曲には、《青》と名付けられた架空の人物が、2017年10月23日~11月5日の期間、《M市》と呼ばれるまちに滞在し、そこに住む人々と関わりながら生活する物語が描かれている。
この戯曲を、実際の舞鶴のまちを舞台に、2週間ノンストップで上演した。《青》と呼ばれる登場人物には、振付家・ダンサーとして活躍する酒井幸菜が、《青》と行動を共にする《写真家》役には、実際に写真家として活躍する鈴木竜一朗が本人役としてキャスティングされた。また、2人が出会う《M市》の人々として、リサーチで出会った地域の方々に出演していただいた。
こうして、彼らの「舞鶴での日常そのもの」が演劇として上演された。その上演の記録は、インターネット上で《青》と《写真家》が発信する日記や写真、FMまいづるや舞鶴市民新聞といったローカルメディアへの投稿を通して公開された。
鑑賞者は特設ウェブサイト(https://www.aoniau.jp)で戯曲を読み、複数の媒体を通じて発信される上演記録を見ることや、戯曲に指定された時間にその場所を訪れ上演に立ち会うことで、作品に触れることができる。
つまり本作は、私たちがリサーチを通して出会った舞鶴の様々な物事や人々についての、ある種のドキュメンタリー演劇と捉えることも、架空の《M市》を舞台にしたフィクションとも捉えることができる。ただ鑑賞者はもちろん、作者である石神自身でさえも、上演の全体像を捉えることはできない。鑑賞者は様々な視点や立場から、ウェブ上で公開されている戯曲と断片的な上演記録を通し、舞鶴のまちで実際に起こった上演を自身の想像力によって立ち上げ、鑑賞することを求められる。
また、上演期間の最終週末には、カトリック西舞鶴教会、市立東図書館、北吸トンネル、大森神社、五老ヶ岳公園の市内5ヶ所で計6回、鑑賞者の存在をシーンの一部に織り込んだ上演を行った。ここでは鑑賞者は、その場所で起こる出来事の「上演台本」を手渡され、自身も登場人物の1人として、《青》と《写真家》と共にまちを舞台にした演劇に「出演」することになる。

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3.考察

3.1 「まち」に向き合う:語り得ない対象を語るための手法
上演や上演記録を通して、鑑賞者に提示されるのは、何気ない舞鶴の日常の断片であり、他愛もない出来事の集積によって成立している、捉えどころのないまちの有り様である。作品は、まちについての安易な理解や表象を拒むことで、「語り得ない対象についてどのように語り得るのか」という問いを投げかけている。
また、石神の戯曲に加えて、FMまいづるのインターネット放送、《写真家》によって撮影された記録写真、《青》の視点で記された日記等は、時間・場所を問わず常時閲覧が可能となっている。実際のまちを舞台に、複数の視点/様々な媒体を通して上演を立ち上げる試みは、劇場に収まらない演劇表現の一つの可能性を提示すると同時に、作品のアーカイブとしても機能している。これは、『大京都』が目指す「アートによる地域のドキュメントの作成」に対する回答となっている。
3.2 参加型演劇:多声的な物語とマイノリティの記憶/鑑賞者から当事者へ
本作は二つの点において参加型演劇としても語ることができる。一点目は、まちの方々が登場人物として出演する点である。「出演」といっても、「本人役」として《青》と《写真家》に会い、普段と変わらない何気ない会話を交わす/一緒に時間を過ごす、といった日常的な行為である。
そこで語られるのは、舞鶴にとって歴史的意味を持つような大きな物語ではなく、ごく個人的なエピソードや、些細な日常の断片にすぎない。石神は、そのような意味付けや価値付け困難な日常の物語に光をあてる事で、まちに遍在する、ありふれた小さな物語を多声的に立ち上げようとする。それは、マジョリティによって編集されてきた大文字の歴史や記録の陰で忘れ去られようとする、マイノリティの記憶に触れようとする手つきともいえる。
二点目は、鑑賞者自身も意識的・無意識的に作品の登場人物を演じることになる、という構造である。特に最終週末の上演では、鑑賞者は自身も登場人物の1人として演劇に参加しなければ鑑賞ができない構造になっていた。図書館や神社といった日常的な場所で、戯曲上の出来事と人物に出会うことにより、鑑賞者自身が上演の一部として実際の都市空間に浸透してくる《M市》の日常を体感する。現実と虚構との相互作用によって見慣れた風景は異化され、鑑賞者は「客席」という安全地帯から「舞台上」へと引き上げられる。そして、程度の差こそあれ誰しもが当事者として、改めて舞鶴のまちと出会うのである。
3.3 想定を超えた参加者たちの出現:創造的市民空間の創出
企画者の想定を超えて起った出来事として、《写真家》の撮影する上演記録に収まることを意図し、赤い色の目立つ衣装を着て上演に立ち会う鑑賞者が現れたことが挙げられる。彼ら・彼女らは繰り返し現れ、偶然その場所に居合わせた市民の様に振る舞いながら上演の様子を目撃すると同時に、それぞれの視点から上演を記述し、SNSに投稿し始めた。石神の戯曲によって舞台化された舞鶴のまちの中で、作者の想定を超え、自発的に演技を始めたのだ。彼らは、まさに自分たちなりに物語を編集し、架空の《M市》の住民として振舞っていたといえる。
英語で演劇は“play”、劇作・劇作家は“playwright”と訳される。彼らはアーティストが示した作品を契機に自分たちの“play”を演じ、二次創作的に“playwright”を行っていた。これは作品をきっかけに都市空間の余白としての“playground(=遊び場)”、創造的市民空間が創出された例として評価できる。

4.課題と発展性

4.1 課題とモチーフ:多声的に語られる物語の聞こえにくさについて
上演の中で語られるまちの方々の物語は、各登場人物の視点で切り取られ、《青》による日記や《写真家》の捉えた写真、FMまいづるの電波などを媒体に部分的・断片的に届けられる。従って鑑賞者は、おそらく相当の能動性を持ってそれらを読み込まなければ(いや、どれだけ読み込んだとしても)作品の全体像を把握することはできない。むしろ石神の戯曲や架空の登場人物の物語に、鑑賞者の焦点が向きすぎる可能性は否定できない。
しかし、この「小さな声の聞こえづらさ」は、リサーチで出会った、坂井仁一郎氏のエピソードをモチーフとしている。坂井氏は、旧ソビエトの国営ラジオ放送の電波を偶然キャッチし、戦後のシベリア抑留者の安否情報を国内の家族に伝えた人物として知られる。
当時の通信機器の状況を考えれば、それがどれほど捕らえづらく不確かな情報だったかは、想像に難くない。それでも、ラジオから聞こえる微かな情報が坂井氏を偶然に捕まえた様に、本作においても、まちの人々の語る小さな物語が、新聞やラジオを通じてそれまで非鑑賞者だった人を不意に捕らえ、突如当事者に変えてしまう偶然性を有している。
4.2 発展性:プラットフォームとしての演劇作品
3でも触れた通り、本作は「参加型」「多声的」「マイノリティの物語」といった、これまでの石神作品に通底する手法やキーワードを用いながら、語り得ない対象とどの様に向き合うのか、まちやそこに住む人々とどの様な関係性を結んでいくことが可能なのかと、いう問いを投げかけている。
そしてその問いかけに対し、鑑賞者がそれぞれの方法で考えるための、一つの場として発展していく可能性を含んでいる。石神はこれまで、特定の地域に3~5年間、継続的に関わることで、作品やプロジェクト、地域との関係性を発展させてきた。対して本プロジェクトは、実質的には3週間程度の短いリサーチを経て実施されたプロトタイプとして位置づけられる。上述の課題等と向き合うことで、より多様な鑑賞体験に開かれたプラットフォーム的な作品として発展していく可能性を秘めている。
多くの鑑賞者が特定の時間/場所に集まることを想定した劇場型の公演とは異なり、「ラジオを聞く」「新聞を読む」「インターネットを見る」「手紙を読む」といった、極めて個人的な鑑賞体験を通して石神が目指したのは、集団と集団による多対多の関係性ではなく、個人と個人/個人と作品といった一対一の関係性を無数に生み出すことであった。この様なごく個人的な関係性の中にこそ、まちという、捉えきれない総体と私たちが関わっていく上でのヒントがあることを本作は示している。
今後、創作プロセスで生まれた個々の関係性や、作品がすくい上げた小さな物語をどの様に取り扱い、発展させていくのか。その体制が問われることになる。
最後となったが、本作を企画・制作するにあたり、リサーチやインタビュー、出演にご協力いただいた舞鶴のまちの方々と、主催者である京都:Re-search実行委員会の方々に、この場を借りて改めて感謝の意を伝えて本稿の結びとしたい。皆さんの寛大な心と暖かい励ましがなければ、この作品は全く違う形をとった、全く別のものになっていたことだろう。

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TEXT:吉田雄一

発表場所

舞鶴市内とその周辺地域及びインターネット上

舞鶴市内

上演1:10/23(月)〜11/5(日)
『青に会う 2017.10-11』上演 特設ウェブサイト
上演2:
11/4(土)
 10:00-10:30 カトリック西舞鶴教会(舞鶴市字北田辺52)
 14:00-14:30 舞鶴市立東図書館(舞鶴市溝尻25)
 16:30-17:00 五老ヶ岳公園(舞鶴市上安237)
11/5(日)
 11:00-11:30 北吸トンネル(舞鶴市浜682)
 14:00-14:30 アートスペース973及び大森神社(舞鶴市森973-1)
 16:30-17:00 五老ヶ岳公園(舞鶴市上安237)

協賛:
 協力:舞鶴市民新聞社

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石神 夏希

劇作家

石神 夏希

劇作家

1999年より劇団・ペピン結構設計を中心に劇作家として活動。慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修了。近年は横浜を拠点に国内各地の地域や海外に滞在し、都市やコミュニティを素材にサイトスペシフィックな演劇やアートプロジェクトを手がける。また住宅やまちに関するリサーチ・企画、NPO法人『場所と物語』理事長、遊休不動産を活用したクリエイティブ拠点『The CAVE』の立ち上げおよびプログラムディレクションなど、空間や都市に関するさまざまなプロジェクトに携わる。


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吉田 雄一郎

城崎国際アートセンタープログラム・ディレクター

吉田 雄一郎

城崎国際アートセンタープログラム・ディレクター

1979年、兵庫県生まれ。兵庫県豊岡市在住。トーキョーワンダーサイト、フェスティバル/トーキョーなどにて、コーディネーターとして勤務したのち、2015年から兵庫県豊岡市の舞台芸術専門のアーティスト・イン・レジデンス施設・城崎国際アートセンターのプログラム・ディレクターとして、レジデント・アーティストの選定や主催公演などの年間プログラムの企画立案に携わっている。北近畿・山陰地域の緩やかなアートネットワークを構想中。演劇カンパニー・マレビトの会のプロジェクト・メンバー。

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